【新川の歴史】

弊社が位置する中央区新川には、かつて「新川(しんかわ)」という川が存在しました。万治3年(1660年)に豪商の河村瑞賢によって開削されたと言われ、隅田川と亀島川をつなぐ水路で、新堀(日本橋川)と並行するように東西に流れていました。

もともとこの地は、隅田川の中洲であり、埋め立てによって形成された土地です。霊岸寺(明暦の大火で焼失後、現在は深川に移転)という寺の名前に由来して、かつては「霊岸島(れいがんじま)」と呼ばれていました。また、当時は埋め立てが不十分で地盤が弱かったことから「蒟蒻島(こんにゃくじま)」という別名もありました。

昭和24年(1949年)に戦災残土の処理のために「新川」は埋め立てられました。現在では川そのものは存在せず、地名として名を残しています。

【江戸時代の酒問屋】

江戸時代より、下り酒の流通を主な目的として形成された専門の卸売業者が酒問屋でした。

これらの酒問屋は単なる商売人ではなく、幕府から鑑札(営業許可証)を下付され、冥加金(みょうがきん:営業税のようなもの)を上納することで、江戸の酒流通において多大な影響力を持っていました。この制度により、公認された酒問屋だけが正式に酒の取引を行うことができる仕組みが確立されていたのです。

また、江戸文化の発展にも大きく寄与しました。この地域は情報の集積地としても機能し、上方の最新文化が江戸に伝わる窓口ともなっていました。

【下り酒】

「下り酒」とは、江戸時代に上方(伊丹、灘)で生産され、江戸へ運ばれた酒のことです。

当時の酒造りにおいて、上質な酒は大消費地である江戸へ「下り」、品質の劣るものは生産地で消費され「下らない」とされました。このことから「価値のあるものが下る」のに対し、「価値のないものが下らない」という意味合いが生まれ、現代の「くだらない」という言葉の語源になりました。

江戸は酒造りに適した環境に恵まれていなかった一方、上方地域は酒造りに最適な条件が揃っていました。さらに、江戸への輸送過程が酒の品質を向上させました。酒は樽に詰められ海上輸送されましたが、波の揺れや時間経過によって、江戸到着時にはちょうど良い熟成状態となっていたのです。

このため「下り酒」は江戸の庶民に非常に人気があり、「下り物」は極上品の代名詞として広く認識されるようになりました。

【上方から江戸へ】

下り酒は、上方から主に酒樽を運ぶ「樽廻船」と呼ばれる船で江戸の品川沖まで輸送されました。そこからさらに「伝馬船」という小型の船に積み替えられ、酒問屋が集まる新川へと運ばれました。

この輸送過程で、樽の破損を防ぐために菰(こも:わらで作った敷物)を樽に巻きつけたことが、現在でも見られる「菰樽」の始まりと言われています。

また、この下り酒の輸送には「新酒番船」という興味深い海上レースがありました。これは樽廻船による新酒輸送のスピードを競うもので、最も早く江戸に到着した船は「惣一番(そういちばん)」と呼ばれ、様々な特権や恩恵を受けることができました。この競争は単なる船の速さを競うだけでなく、上方の酒造家や船主の名誉と商業的な優位性を確立する重要な行事でもあったのです。

【新川締め】

江戸時代から酒問屋に伝わる伝統的な手締め。三本締め、一本締め、一丁締めなどと同様の手締めの一種です。

商談成立や新年初売りなどの行事の際に行われてきました。現在でも酒問屋衆や新川界隈で、行事などの締めの際に「新川締め」が行われています。